HISTORYFC岐阜 クラブヒストリー

CLUB HISTORYFC岐阜 クラブヒストリー

2023

J3 14勝12分12敗 勝点54 8位
監督 上野優作

2023シーズンは、2021年~2022年までSAMURAI BLUE(日本代表)のコーチを務め、「FIFAワールドカップカタール2022」でもコーチとしてチームを支えた上野優作氏が新監督に就任。ヘッドコーチには2022シーズンに北九州の監督だった天野賢一氏を起用。昨シーズンを限りで現役を引退した本田拓也氏がコーチに就任するなど、体制も大きく変わっての船出となった。
チームには新たに7名の大卒選手が加入。横山智也選手、羽田一平選手はFC岐阜アカデミー出身選手としてファン・サポーターからも大きな注目を浴びた。大卒となる2000年生まれの年代が9名、1998年生まれも6名など、25歳以下が32人中19人を占めるなど、大きく若返った陣容となった。
開幕からの5試合は2勝2分1敗とまずまずのスタートとなったが、その後4連敗。中盤には7試合負けなしと盛り返し順位を5位にまであげたが、なかなか波に乗り切れず、終盤は勝ちきれない試合も続いた。最終的には14勝12分12敗の8位でフィニッシュ。
失点数は35とリーグで2番目の少なさとなり、手堅い試合を展開することができるようになったポジティブな変化は見られた。ただ、前年チーム得点王だった藤岡浩介選手をはじめ、田中順也選手、田口裕也選手が3得点にとどまり、チーム得点王も窪田稜選手の9得点と、シーズンを通して得点力不足に悩み、得点数は44と、20チーム中13番目の低さとなった。1点差ゲームも多く、引き分けを勝ちきれないなどあと一歩の試合が多く、得点力不足が最終的な順位に響く結果となった。
2023シーズンが終了し、この年をもって柏木陽介選手、田中順也選手、松本拓也選手が現役引退。12月には上野優作監督の継続が発表され、大木武監督以来の同監督での2シーズン目を戦うこととなった。

2022

J3 10勝7分17敗 勝点37 14位
監督 三浦俊也→横山雄次

大型補強でオフ期間の話題をさらった2022シーズン。
昨年途中から統括本部長兼テクニカルダイレクターを務めていた三浦俊也氏が監督に就任し、チーム統括本部長には山道守彦氏が就任した。
クラブ在籍期間も長かった甲斐健太郎選手、中島賢星選手、三島頌平選手や、また、前年のリーグ得点王だった川西翔太選手が移籍や満了でチームを離れた一方、J1から宇賀神友弥選手(浦和レッズ)、田中順也選手(ヴィッセル神戸)を獲得。菊池大介選手や石津大輔選手、フレイレ選手、岡村和哉選手など経験も実績も豊富な選手が加入。さらに庄司悦大選手、ヘニキ選手が2017年以来の再加入となった。また前年、宮崎でリーグ得点ランキング2位を記録した藤岡浩介選手も加入するなど、大型補強を実施したシーズンとなった。
大きな期待を背負ってのスタートとなったが、開幕から7試合を終えて2勝1分4敗と大きく出遅れる形となり、5月には三浦俊也監督が退任。後任にはヘッドコーチを務めていた横山雄次氏が就いた。その後7試合負けなしで順位を一気に5位まで上昇させたが、その後は連敗も続き、10試合で2勝2分6敗と波に乗ることができなかった。終盤10試合も1勝2分7敗で連敗が続き、10勝7分17敗の14位でシーズンを終えた。
シーズンを通して失点が多く、53失点はリーグワースト3位。得点も藤岡浩介選手が16得点でリーグ得点ランキング2位を記録するも、次が4得点の窪田稜選手と特定の選手に依存する形となり、全体の得点数も伸び悩む結果となった。大型補強で話題となったが、結果としてはJ3降格後ワーストとなる14位でフィニッシュとなり厳しいシーズンとなった。横山雄次監督も退任となり、翌シーズンも新たな監督での船出となることが決まった。
この年、石坂亮人選手がFC岐阜アカデミーから初昇格。夏には福井ユナイテッドFCへの期限付き移籍もあったが、今後のFC岐阜アカデミーにとって大きな一歩となるシーズンとなった。

2021

J3 12勝5分11敗 勝点41 6位
監督 安間貴義

J3リーグ2年目となった2021シーズン。監督にはFC東京でコーチを務めていた安間貴義氏を迎えた。
モンテディオ山形から本田拓也選手、ザスパクサツ群馬から舩津徹也選手、レノファ山口FCから吉濱遼平選手、柏レイソルから桐畑和繁選手が加入するなど、経験豊富な頼もしい選手が加入した。また、開幕直前の3月には浦和レッズから柏木陽介選手が加入。J1で活躍する選手の電撃加入は大きな話題となった。
迎えた開幕戦はホームで0-0の引き分けに終わったが、そこから3連勝を達成。幸先の良いスタートをきった。その後は勝ち負けがはっきりする展開となったが、15試合を終えて2位に勝点差1の3位と良い位置につけて前半戦を折り返した。
夏には水戸ホーリーホックから深堀隼平選手、ツエーゲン金沢から窪田稜選手が期限付き移籍で加入するなど補強も積極的に行った。
しかし後半戦は一転勝ちきれない試合が続き、引き分ける試合も多くなった。勝利も散発的となり、後半戦では一度も連勝を飾ることができなかった。勝負どころのラスト5戦も1勝1分3敗と大きく負け越し、勝点41の6位でシーズンを終了した。
この年完全移籍となった川西翔太選手は13ゴールをあげてリーグ得点王を獲得。シーズンを通して勝負所での得点も光り、まさにエースの活躍となった。しかし、川西選手以外の得点が伸びず、チーム2位がDFの三ッ田啓希選手の4点と寂しい結果となった。
シーズン終了後に安間監督が退任。翌年からは新たな監督でスタートを切ることとなった。
クラブとしては、3月1日にJトラスト株式会社の小松裕志氏が社長室GMに就任。12月9日付けで代表取締役社長に就任し、社長の宮田博之は取締役会長に就任した。

2020

J3 16勝8分10敗 勝点56 6位
監督 ゼムノビッチ ズドラブコ→仲田建二

カテゴリーをJ3に移しての初めてのシーズン。監督には清水エスパルスで監督を務め、天皇杯優勝やゼロックス・スーパーカップ制覇の実績を残したゼムノビッチ ズドラブコ氏を招聘。チーム統括本部長に新たに木村哲昌氏が就くなど、大きく体制が変わってのスタートとなった。
選手は、新たにヴィッセル神戸から橋本和選手、松本山雅FCから高崎寛之選手、ブラウブリッツ秋田から松本拓也選手など豊富な経験を有する選手を獲得。前田遼一選手や川西翔太選手、中島賢星選手などが契約を更新・延長するなど、1年でのJ2復帰に向け充実した戦力を整えた。
ところが、シーズン開幕を控えた2月に新型コロナウイルスが蔓延。開幕戦が延期になると、すべてのリーグ戦がストップ。トップチームはもちろん、アカデミーやスクールの活動も休止になるなど、クラブにとっても大きな影響が出る形となった。 リーグ戦は様々な感染対策を実施した上で、約4か月遅れの6月27日FC今治戦で開幕。開幕戦は無観客での試合となるなど、異例の中でのスタートとなった。
開幕後は勝利と敗戦を繰り返す安定しない試合が続き、順位も4位から10位を推移。9月25日には8勝4分4敗で6位に沈んでいたゼムノビッチ監督の契約を双方合意のもと解除。ヘッドコーチを務めていた仲田建二氏が新たに監督に就任した。第17節からリーグ戦4連勝を果たすなど大きく盛り返したが、直後に3連敗を喫するなど失速。勝ちきれない試合が続くが、それでも終盤に3連勝し4位まで順位を上げた。第33節で2位に位置する長野との直接対決に臨み、勝てば勝点で並ぶところだったが無念のスコアレスドロー。最終節もわずかながら昇格の可能性を残していたが、G大阪U-23に敗れシーズンが終了。
最終順位は6位で1年でのJ2復帰を逃す結果となった。

2019

J2 7勝9分26敗 勝点30 22位
監督 大木武→北野誠

大木武監督体制3年目となった2019シーズン。2018シーズン中盤の10連敗から脱出したように、選手を幅広く起用し、戦略も多様化して開幕から6節までは快調なスタートをきった。
しかし、7節からの負け方は昨年の10連敗時と同じパターンに戻り、4連敗の後、13節のツエーゲン金沢戦を落とし最下位に転落。その後も連敗が続き、J3降格阻止のため、18節の大宮アルディージャ戦後に監督交代をおこなった。
新監督には経験豊富な北野誠氏を招聘。就任直後の2試合は落とすものの、21節のアウェイ・アビスパ福岡戦は3-1で快勝。前半戦出番のなかった川西翔太選手が2ゴールをあげるなど、反転攻勢の雰囲気を感じさせる勝利となった。
夏の補強期間に主力だった風間宏矢選手と山岸祐也選手が移籍するも、実績のある馬場賢治選手や當間建文選手、ジュニオールバホス選手など、過去最大の補強を実施。後半戦の巻き返しを図るものの、成績は安定せず、最下位を抜け出せない状況が続く。
34節から38節の5試合を1勝3分1敗と粘りをみせたが、そこから連敗を喫し、41節のホーム・ヴァンフォーレ甲府戦を1-3で落としたことで、クラブ初のJ3降格が確定した。
序盤から主力選手の怪我が相次ぐなど苦しいスタートとなったものの、シーズン中の監督交代や過去最大の補強など、J2残留へ手段を尽くした。
結果的にJ3降格となったが、川西翔太選手や甲斐健太郎選手、藤谷匠選手など、序盤に出場機会のなかった選手たちがチャンスを掴み、後半戦のキーマンへと変貌。また、柳澤亘選手や粟飯原尚平選手など、大卒1年目の選手がJ2で戦える能力を示すなど、期待を抱かせるシーズンともなった。

2018

J2 11勝9分22敗 勝点42 20位
監督 大木武

大木武監督2年目の2018シーズンは、序盤、古橋亨梧選手、田中パウロ淳一選手が攻撃のバリエーションを見せ、第3節から第7節に得点の量産に成功した。その後も古橋亨梧選手が第13節から第18節まで6試合連続で得点を奪う高いパフォーマンスを発揮し、第18節には7位に位置するなど、過去最高の成績で前半戦を折り返した。
しかしながら、後半戦はFC岐阜対策を徹底している相手に対して上回るサッカーを展開できず、さらには、夏の移籍期間に古橋亨梧選手がヴィッセル神戸に移籍、同時期に田中パウロ淳一選手がケガにより戦線を離脱したことにより、攻撃力が低下したこともあり、第24節から第33節まで10連敗を喫することになった。
第34節の東京ヴェルディ戦では元イタリア代表のデル・ピエロ氏を長良川競技場へ招き、2018シーズン最高の12,045人の観衆の前で連敗のストップに成功した。
また、リーグ終盤では、持ち前のパスサッカーに加えて、粘り強い組織的な守備が徐々に構築され、失点を大幅に減らすことに成功した。
結果的には20位という苦しいシーズンであったが、大卒ルーキーで地元岐阜県出身の三島頌平選手や、同じく大卒の石川大地選手、J1からの期限付き移籍選手の宮本航汰選手・イヨハ理ヘンリー選手・北谷史孝選手、U-21日本代表で活躍した長沼洋一選手など、"若手選手が育つ"というクラブカラーが鮮明となったシーズンであった。

2017

J2 11勝13分18敗 勝点46 18位
監督 大木武

Jリーグ加盟10周年を迎えた2017シーズンは大木武新監督のもと、開幕の2試合で圧倒的なボール保持率とパス数、パス成功率でJリーグ全体に強烈なインパクトを与えることに成功した。第6節から第11節までを5勝1分で終えた快進撃を支えたのは、庄司悦大選手とシシーニョ選手の2人を中心としたパスでリズムをつくるゲームメークが一つの特徴であった。さらに新人選手の古橋亨梧選手の相手守備網を突破する速さ、大本祐槻選手の後ろから駆け上がるオーバーラップが加わり、シーズン序盤の成績へ結びついていった。第12節から第21節までの10戦は未勝利と長いトンネルに入ったが、特定のストライカーに頼ることなく、シーズンを通して15名の選手が得点を挙げたことは、新生大木サッカーの成長と言えるものであった。第35節の名古屋グランパスとの名岐ダービーでは過去最多入場者数17,027人を記録し、10周年の歴史的対戦となった。最終的な順位としては上位に食い込むことができなかったもののボール支配率とパス数がJリーグトップとなり、独自のスタイルを構築したシーズンとなった。
また、U-18が初めてG1リーグで優勝し、プリンスリーグ東海参入戦で翌シーズンからのプリンスリーグ東海参入を決め、ユース世代も大きく成長したシーズンであった。
その他に、10周年を記念し、岐阜公式マスコットキャラクター「ギッフィー」の登場や女性サポーターの愛称が「ナガラジェンヌ」に決定という出来事があった。

2016

J2 12勝7分23敗 勝点43 20位
監督 ラモス瑠偉→吉田恵

前年、退任した恩田聖敬元社長に代わり宮田博之新社長が就任し、新しい経営体制でスタートした。ラモス瑠偉監督も3年目となり、結果を出すことが期待された。このシーズンは、名古屋から高木義成選手、京都から田森大己選手、金沢から田中パウロ淳一選手、大分からエヴァンドロ選手など、実績のある選手を補強した。しかし、期待とは裏腹に開幕戦・第2節はいずれも4失点で厳しい連敗スタートとなった。ところが第3節北九州戦でレオナルド・ロシャ選手がゴールを決め勝利を収めると、そこから4連勝し、一時5位まで順位を上げた。序盤の貯金で第20節を迎えるまでは10位前後を推移したが、そこから5連敗を喫した第24節金沢戦後にラモス瑠偉監督の解任が発表された。第25節札幌戦からは、コーチから昇格した吉田恵新監督が指揮を執ったが、連敗は7まで止まらなかった。その後、4引き分けを挟み9月に連勝、しかし10月には5連敗とまさに崖っぷちの残留争いとなった。最終節、東京ヴェルディ戦、岐阜は勝利で残留が確定する大一番。2度先制されるも追いつき、最後は難波宏明選手の2ゴールで勝利し残留を決めた。スタジアムに集まった12,000人が歓喜する歴史的な一戦となった。

2015

J2 12勝7分23敗 勝点43 20位
監督 ラモス瑠偉

ラモス瑠偉監督の2年目となるシーズンは、実績のある選手の加入からスタートした。元日本代表の高木和道選手、岡根直哉選手、冨士祐樹選手など、各クラブで活躍してきた選手を揃えた。さらに、ブラジルからレオミネイロ選手が加入し、退団したナザリト選手の後釜として期待された。序盤はスタートダッシュが掛からず6連敗と苦しい戦いが続いた。その後、徐々に勝点を積み上げ第19節ではジュビロ磐田を相手にアウェイで、難波選手の2ゴールで逆転勝利を収める大金星をあげた。シーズン途中にはさらに補強によって、大分の中心選手であった風間宏矢選手、ミスターコンサドーレの砂川誠選手、Jリーグでも活躍したジウシーニョ選手が加入した。
8月に3連勝したが終盤は勝点を伸ばすことができず、下位を低迷する苦しいシーズンとなった。ホーム最終戦では、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患いながらもクラブ経営に尽力した恩田聖敬社長の退任が発表された。

2014

J2 13勝10分19敗 17位
監督 ラモス瑠偉

ラモス瑠偉新監督を迎え、攻撃的なサッカーを展開したシーズン。
2013年12月、これまでのクラブの歩みを大きく変える出来事が起こった。岐阜出身の実業家によるクラブ支援でラモス瑠偉監督が電撃就任。さらに元日本代表 GK川口能活、MF三都主アレサンドロが相次いで新加入。積極的な補強を行い、DF深谷友基、MF高地系治、MFヘニキ、MF太田圭輔、FW難波宏明、FWナザリトら、実績のある選手を獲得。シーズン前から大きな話題を集めてスタートした。3月開幕を迎えたチームは、開幕戦讃岐、富山に連勝し、好調なスタートを切った。ワールドカップ後の6月には第18節ジュビロ磐田戦でクラブ最高入場者数となる1万5千138人を集めた。シーズン中盤から後半に掛けては思うように勝点を積み上げることができず、苦しい状況が続いた。第41節J1昇格を決めた松本山雅FCに勝利し、ホーム最終戦を飾った。シーズンを通して攻撃的なパスサッカーで得点力が向上し、スペクタクルな試合が増えた。順位こそ17位だったが、ラモス瑠偉監督が目指すサッカーが打ち出されたシーズンとなった。

2013

J2 9勝10分23敗 21位
監督 行徳浩二→辛島啓珠

残留達成とチームを引っ張ってきた服部年宏選手が引退。
2012年シーズンに厳しい残留争いとなったため、クラブはDF杉山新、デズモンド、新井辰也、MF美尾敦、益山司など実績のある選手を補強し、チーム力強化を目指した。しかし、開幕前のプレシーズンマッチで服部年宏が負傷するなど、シーズン前からけが人が増えていった。
行徳浩二監督の2年目となった2013シーズンは、開幕から7試合白星が挙げられず、苦しいスタートとなった。第8節松本山雅FC戦でけがから復帰した新井辰也が途中出場から2得点を挙げ、初勝利となった。
しかし、その後も9試合白星がなく、順位を上げることができなかった。第18節ホームで長崎を迎えると、染矢の2ゴールで勝利、つづくアウェイでの鳥取戦では、4点を奪い逆転勝利で連勝となった。
シーズン終盤となってもなかなか白星を積み上げることができないと、第29節水戸戦後に行徳監督が解任となり、辛島啓珠監督が指揮を執ることになった。そして、第33節で残留争いをする草津と対戦。これに勝利した岐阜は、続けてホーム(浅中)に同じく残留争いをする鳥取を迎えると、スティッペの2ゴールで連勝を収めた。
第41節札幌戦では、最下位の鳥取と勝点4ポイント差となり、敗戦ながらも残留が決定する。最終節、アウェイの富山では前節の鬱憤を晴らすかのようにアグレッシブな戦いをみせ、勝利で服部年宏選手の引退に花を添えた。

2012

J2 7勝14分21敗 21位
監督 行徳浩二

守備の再構築で熾烈な残留争いに耐え、J2リーグ残留。
2011シーズンを最下位という形で終了した岐阜は、チーム再構築のため行徳浩二氏を監督に招聘した。育成に定評のある行徳監督の下、チームの規律を明確にし、失点の多かった守備から立て直しを図った。初勝利は、第8節ホームでの九州戦だった。序盤は失点を少なくし僅差の試合をするも、勝利が遠かった。第17節アウェイの千葉戦では、格上の相手だったが、運動量を増やし粘り強く戦った結果、見事に勝利を掴んだ。この勝利で岐阜が目指すサッカーのスタイルが見え始め、大きな自信となった。夏場を越えると守備が安定し始め、失点は抑えることができるようになった。しかし、勝つために必要な得点が取れず、その課題に苦しむことになった。FWの組み合わせやシステムを変更して攻撃を活性化させたが、思うように得点を増やすことはできなかった。そんな中、第32節ホーム東京V戦では1点を先制し、それを守り切って東京Vから初勝利を挙げた。続けて第35節のホーム湘南戦では、3対2の激闘を制し湘南から嬉しい初勝利を挙げた。終盤は熾烈な残留争いに巻き込まれ、勝てば残留決定という場面でも勝つことができず、最終節アウェイの横浜FC戦を迎えた。残留を目指して奮闘し2点を奪った。しかし、横浜もプレーオフ出場が掛かった試合で逆転されてしまった。結果的に、FC町田ゼルビアが敗退したことで残留が確定した。岐阜にとっては初の残留争いということで、その緊張感と危機感を肌で感じることになった。この苦い経験を胸に刻み、クラブとして成長しなければならない。

2011

J2 6勝6分26敗 20位
監督 木村孝洋

震災発生でリーグ中断、最下位でシーズンを終了
4シーズン目を迎えたFC岐阜は、木村孝洋新監督を招聘し巻き返しを誓ったシーズンとなった。開幕戦は、ホームで大分トリニータに惜しくも敗退してしまうが、次節に期待が持てる試合となった。しかし、3月11日に日本を襲った東日本大震災によって、Jリーグは第2節から長い中断に入ることになってしまう。その後は、各クラブが被災地支援のために様々なチャリティー活動や支援活動を行った。岐阜も募金や物資などの支援活動を行い被災地の支援をした。Jリーグが再開されたのは4月23日第8節vsロアッソ熊本戦からだった。熊本戦では1点返すが敗戦となり、続く第9節、水戸ホーリーホック戦で佐藤、嶋田が2ゴールを奪い初勝利を収めた。しかし、その後は勝利から遠ざかり、7月3日第19節vs京都サンガF.C.で劇的な勝利を奪った。これで流れが好転するかと思われたが、失点の多い試合が続き最下位となってしまう。最下位脱出を掲げて戦うが、泥沼の連敗を重ねてしまいシーズン終盤も立て直すことができなかった。天皇杯でもギラヴァンツ北九州に敗戦し、次に駒を進めることはできなかった。クラブ初のシーズン最下位という屈辱と悔しさを味わう厳しいシーズンとなった。

2010

J2 13勝6分17敗 14位
監督 倉田安治

堅守を武器にホームで勝利!
Jリーグディビジョン2の3シーズン目を戦うFC岐阜は、倉田安治新監督を迎えチームとしてさらにレベルアップを目指した。昨年までの選手をベースにチーム作りを行い、倉田監督の下、堅守という戦術を作り上げシーズンに臨んだ。昨年からの戦術の変更もあり開幕は富山に勝利するが、その後連敗と苦しいスタートを切ることになった。
このシーズンはワールドカップのため、中断期に飛騨古川でキャンプを行いチーム戦術の完成度を高めた。これが中断明けの戦いを良い方向に持っていった。これまで引き分けに出来なかった試合を引き分けに持ち込むなど、ゾーンでの守備が徹底されチームの勝ち点も徐々に積み上がっていった。
そして、10月にはホームゲームで8勝負けなしと強さを見せた。しかし、シーズン終盤で上位対戦が続くと黒星を増やしてしまう。ホーム最終戦では連敗を止め快勝して締めくくった。シーズンを通して、守備的には良かったが攻撃で点を思うように奪うことができず、順位を上げることはできなかった。

2009

J2 16勝14分21敗 12位
監督 松永英機

新生FC岐阜、天皇杯ベスト8進出
Jリーグディビジョンの2シーズン目となったFC岐阜は、クラブの経営難のため15選手と契約を更新せず、シーズンに入る前から不安を抱えたスタートとなった。その代わりの多くの大学生選手を含む、新加入選手を迎えて新たなスタートを切ることになった。
しかし、大幅に選手を入れ替えたチームはシーズンが始まる頃になっても厳しいリーグ戦を戦っていけるか不安があった。しかし選手たちは、ひたむきに練習を取り組むことでしっかり準備を行っていた。開幕戦はアウェイで昇格してきた栃木SCとの対戦となったが、高木和正のゴールで1-0で勝利し、順調な出だしとなるはずだった。しかし若いチームは序盤戦で9試合勝ちなしと苦しい時期を過ごすことになる。5月に入ると新加入した選手も試合に慣れ始め、負けない試合展開が続くようになった。夏前になるとチームはホームゲームで健闘し始め、8月までホームゲーム11勝負け無しとホームで強さを見せた。また、7月にはクラブ初となる4連勝を飾るなど夏場でも粘り強い試合を展開し、勝ち星を重ねていった。夏には、首位セレッソ大阪に逆転勝ちや横浜FC戦での逆転勝ちなど劇的な試合が長良川球場で観られるようになり、いつしか"長良川劇場"と呼ばれた。
若い選手はシーズンを戦ううちにたくましく成長し、FC岐阜らしい"ひたむきなサッカー"がスタイルとして観客を魅了した。
そして、天皇杯ではJ1ジェフユナイテッド千葉を1-0で破り、クラブ初のベスト8へ進出する快挙を見せる。準々決勝では名古屋グランパスと対戦し0-3で敗退してしまうが、最後までFC岐阜らしいサッカーを見せてくれた。選手・サポーター・クラブが共に育った良いシーズンとなった。

2008

J2 10勝12分20敗 13位
監督 松永英機

夢のJリーグ昇格 J2リーグでの戦いが始まる
念願のJリーグディビジョン2でのシーズンを迎えたFC岐阜は、薮田光教、吉村光司、奈須伸也、川島眞也ら、Jリーグでも経験豊富な選手を補強しチームのレベルアップを図った。最初の対戦相手は元J1のヴァンフォーレ甲府。FC岐阜は果敢に挑み、小島宏美が昇格後初ゴールを決め、初戦を引き分けでスタートした。その後、第3節ではJ1に昇格したモンテディオ山形に5得点を挙げて快勝するなど、序盤戦で旋風を巻き起こした。しかし夏場になると勢いは失速し、6連敗で13試合勝ちなしと苦しい時期が続いた。
最後まで勝負にこだわり戦い、シーズンを通してもあと一歩で勝てる試合も数多くあり、12引き分けと惜しい試合が続いた。
J2リーグ昇格後の初シーズンは10勝12分20敗とJ2リーグの厳しさを味わったシーズンとなった。また、ファン・サポーターにとってもホーム3勝と悔しい思いをしたシーズンだった。しかし、J2リーグに昇格し初のシーズンを15チーム中13位で終えたことは、選手・クラブにとっても良い経験となったシーズンだった。

2007

JFL 17勝9分8敗 3位
監督 戸塚哲也→松永英機

アマチュア最高峰JFLでの戦いを経て、J昇格決定!
念願のアマチュア最高峰JFL(ジャパンフットボールリーグ)へ昇格したFC岐阜。夢のJリーグ昇格へ本格的に挑戦する年となった。このシーズンのJFLには、現在J2リーグに在籍するロアッソ熊本、栃木SC、カターレ富山(YKK、AP、アローズ北陸)など、強豪チームが揃っていた。シーズン開幕はアウェイvsホンダFC戦を1-0で勝利すると、そこから5連勝で、昇格して間もないチームとしては驚異的な開幕ダッシュを見せた。
佐川印刷との試合で敗戦するもその後も5試合負け無しと快進撃を見せた。シーズン途中の6月に戸塚哲也監督からヘッドコーチを務めていた松永英機が監督に就任した。シーズンの後半戦に入ると、試練がFC岐阜を襲った。
後期戦が始まって10試合で1勝、ホームゲームでも6試合連続で勝ち星から遠ざかり、一時7位まで順位を下げてしまう。
しかし、ここから粘りを見せたFC岐阜はジェフリザーブスに勝利すると、続けて三菱水島にも勝利し4位に返り咲いた。このまま昇格条件である4位以内へ一気に行くかと思われたが、優勝を決めている佐川急便に敗戦し、4位内確保が消滅した。だが、昇格を争うチームが敗れたことで再び自力昇格の可能性が出てきた。最終戦はアルテ高崎に2-0で勝利し、見事3位以内となりJリーグ昇格の基準を達成した。そして、12月3日Jリーグより昇格の連絡があり、ついにリーグの舞台へFC岐阜が加入することが決まった歴史的な年となった。

■2007年12月4日 岐阜新聞1面・中面
FC岐阜のJリーグ昇格は、大きな話題となった。

2006

東海社会人リーグ1部 12勝2分0敗 優勝
監督 戸塚哲也

 

このシーズンから、5年間監督を務めた勝野正之監督から、元日本代表で読売クラブでも活躍した戸塚哲也監督が就任した。
2006年、東海社会人リーグ1部へ戦いの場を移したFC岐阜は、このシーズンを12勝2分0敗と圧倒的な成績で、全国地域リーグ決勝大会への出場を決めた。
全国地域リーグ決勝大会の決勝リーグではTDKに次いで2位に入り、ホンダロックとの入替戦が決定した。入替戦では第1戦を4-0、第2戦を4-1で完勝して2007年からのJFLが確定した。岐阜県勢のチームがJFL以上の全国社会人サッカーリーグの出場権を得たのは西濃運輸サッカー部以来のこととなった。この年の8月28日に株式会社岐阜フットボールクラブが設立され、代表取締役に鈴木誠が就任した。
2006年、全国地域リーグ決勝大会は1位TDK、2位FC岐阜、3位ファジアーノ岡山だった。

■2006年11月1日 中日新聞
最終戦、佐川急便中京に引き分け、無敗でリーグを締めくくった。
■2006年11月1日 岐阜新聞
東海社会人リーグ1部を無敗で優勝を飾った。

2005

東海社会人リーグ2部 8勝5分1敗 2位
監督 勝野正之

森山泰行、北村隆二、平岡直樹、伊藤哲也らが加入。
2005年シーズンは、元名古屋グランパスエイトの森山泰行が加入したこともあり、一気にJリーグ昇格へ向けての流れができることになる。森山の加入は、FC岐阜の知名度を大きく上げることになる。このシーズンから北村隆二、平岡直樹ら元リーガーも加入し戦った。しかし、シーズンを通して引き分け試合が多いシーズンでもあった。
結局、最終節前節で勝っていれば2位以内が確定し、1部への昇格が決まっていた。しかし、この試合を引き分けてしまったFC岐阜は、得失点差で最終戦に7得点を奪って勝たなければ昇格できないという状況に追い込まれた。
最終節、豊田自動織機戦が口論義運動公園で行われ、多くのファン・サポーター・メディアが駆けつけ、この注目の一戦を見守ることになった。この試合で西脇良平の2ゴール、平岡直樹のハットトリックなどで7-0の大量得点をあげ、奇跡的な大逆転を成し遂げた。ロスタイムにはPKを相手に与え絶体絶命となるものの、これがポストに当たり外れるという運も味方した。
この結果、得失点差「1」で上回り、東海社会人リーグ2部を2位で終え、ついに念願の東海社会人リーグ1部への昇格を決めた。これは、開催された口論義運動公園の名前から「口論義の奇跡」と語り継がれることになった。
この年から、アドバイザーとして今西和男(前代表取締役社長)がFC岐阜をサポートすることになった。
最終節7得点を奪って勝たなければならなかったFC岐阜は、出場停止の選手に他会場へ行かせ、遂次、試合の展開を電話で連絡させた。それを聞きながら、7-0で勝てば大丈夫だと解ったのは、後半に入ってからのことだった。

■2005年10月3日 中日新聞
■2005年10月3日 岐阜新聞
東海社会人リーグ1部昇格を奇跡の逆転で決めた。

2004

東海社会人リーグ2部 8勝6敗 3位
監督 勝野正之

東海社会人リーグ2部への挑戦
東海社会人リーグ2部に昇格したFC岐阜は、同リーグでは他チームのレベルも高く、勝ち負けを繰り返して8勝6敗という成績を収める。さすがに、これまで戦ってきた岐阜県リーグとのレベルの違いは歴然としていた。
しかし、シーズンに初参加ながら1部への自動昇格枠(2チーム)にあと一歩迫る3位という健闘を見せた。この時は得失点で負けて3位となり、1部に昇格することができなかった。

■2004年東海社会人リーグ2部
vs春日井クラブ@浅中公園
東海社会人リーグ2部で春日井クラブと対戦(撮影:吉田鋳造)
■2004年東海社会人リーグ2部
vs豊田蹴球団@杭瀬川グラウンド
東海社会人リーグ2部で、豊田蹴球団と対戦(撮影:吉田鋳造)

2003

岐阜県リーグ1部 10勝0敗 優勝
監督 勝野正之

東海社会人リーグへ3度目の挑戦 悲願の東海社会人リーグ昇格

県リーグでは十分な戦力を整えていたFC岐阜は、このシーズンも負け無しの10勝0敗で優勝を飾り、東海社会人リーグへの3度目の挑戦をすることになる。この頃になると周囲の期待も集め、入替戦突破へのプレッシャーも掛かるようになってきた。東海社会人リーグ2部の入替戦は、翌年2004年1月に行われた。
1回戦は当時の静岡スバルとの対戦だった。雪の降る寒い口論義運動公園で、からくもPKで勝利を手にする。翌日、港サッカー場で行われたFCゴールとの試合に勝利し、ついに東海社会人リーグへの昇格を果たした。3度目の挑戦で昇格を果たしたFC岐阜は、喜びと安堵に包まれた。それと共に、東海社会人リーグという新たなステージでFC岐阜の戦いが始まることになった。

■2004年1月17日
vs静岡スバル@口論義運動公園
雪が降る中で、行われた東海社会人リーグ入替戦vs静岡スバル戦(撮影:吉田鋳造)
■2004年1月18日
vsFCゴール@港サッカー場
FCゴールに勝利し、東海社会人リーグ2部への昇格を決めた記念の集合写真(撮影:佐藤太元文)
■2004年1月19日 岐阜新聞
3度目の挑戦で、念願の東海社会人リーグ2部への昇格を決めた。

2002

岐阜県リーグ1部 10勝0敗 優勝
監督 勝野正之

スティックルバック スポーツクラブサッカー部門へ

この年、スティックルバックスポーツクラブ(大垣市)のサッカー部門トップチームとしてFC岐阜が位置づけられ、少しずつクラブの組織が整えられていった。前年の体力作りが功を奏し、このシーズンの県1部リーグでは負け無しの10勝0敗で優勝を飾った。
このシーズンには、岐阜県内でも有名選手だった高木(政)、小原、森下(川崎重工)などの選手が加入し、高い能力を持った選手がチーム内に増えていった。当初13人だったチームは、この時には21人になっていた。
前年、東海社会人リーグ入替戦で手応えを感じていたFC岐阜だったが、入れ替え戦を簡単に突破することはできずまたも敗戦し、2度目の挑戦も叶わなかった。

記事の中で当時の松原郁夫県サッカー協会理事長は「地域密着型のクラブとして、一歩一歩育てていきたい。遠い将来かもしれないが目標としてJFLを目指している」と語っている。
このシーズン、最終戦は二連覇していたFC川崎を破り全勝優勝を飾った。

■2002年11月25日 岐阜新聞(1面)
「ニュースNOWぎふ」で、このシーズンを優勝で飾ったFC岐阜の特集が1面に掲載された。

2001

岐阜県リーグ 8勝1分1敗 2位
監督 勝野正之

FC岐阜が発足し、県リーグに参戦

2001年4月、FC岐阜というサッカーチームが大垣市に発足することになった。その切欠となったのが1997年に廃部したJFL西濃運輸サッカー部監督の勝野正之(元FC岐阜セカンド総監督)だった。
勝野は、それまで岐阜県内のサッカーをリードしていた西濃運輸サッカー部廃部と共に、県内のサッカーレベルの低下に危機感を覚えていた。それまで、単独チームとして国民体育大会に出場していた西濃運輸サッカー部の廃部と共に、岐阜県のチームが国民体育大会へ出場することはなくなった。岐阜県内で選抜チームを組むものの予選で大差で負けるなど、国民体育大会への出場は遠いものとなっていた。
このまま選抜チームという形をとり続けても、国民体育大会へ出場するのは厳しいと考え始めた勝野は、年間を通して強化できるチームを作ろうと岐阜県サッカー協会に呼びかけた。当時、岐阜県サッカー協会理事長だった松原郁夫(前株式会社岐阜フットボールクラブ取締役)と、同協会社会人連盟三浦陽一らと共にチームを作ることになった。こうして、岐阜県サッカー協会・社会人連盟のバックアップの下、FC岐阜が誕生することになる。
しかし、元々チームがあったわけでなく、一からチームを作り始めることとなった。勝野はチーム発足のため、岐阜県サッカー協会の技術委員を務めるかたわら、同じく技術委員を務める高校の教諭たちに、高校時代の実力のあった選手で岐阜県に残っている選手を探すことから始めた。高校時代にある程度活躍した選手をピックアップしてもらい、直接電話をして、セレクションを行うことを一人ずつ伝えていった。
ようやく集まった選手でセレクションを行ったが、悲惨な状況だった。クーパー走を行うことができないほど走れない選手が集まり、体力レベルは中学生くらいだった。それから、練習は体力づくりから始まることになった。当時選手であった石崎義之(元FC岐阜主務)は「みんな基本的な体力が全くなかった。」と振り返る。
当初13人からスタートしたFC岐阜は、サッカー協会や社会人連盟の配慮により、特別に岐阜県リーグ1部からの参戦となった。
しかし、寄せ集めのチームは公式戦の初戦で敗れてしまう。勝野は「特別にリーグに入れて頂いたのに申し訳ない。」と思った。それから戦術をもう一度整理し直し、公式戦に臨んでいく。それからはリーグ戦を負け無しで、8勝1敗1分の2位でシーズンを終了することになった。
リーグ戦を2位で終えたことで、東海社会人リーグへの入れ替え戦に出場することができた。しかし、当時対戦した相手は静岡FCだった。静岡県から第3のJクラブを目指す勢いを持っていた静岡FCを相手に延長で敗退してしまうも、手応えを感じた一戦だった。
これが、最初の東海社会人リーグへの挑戦となった。